1.魅力ポイント
保土ケ谷歴史まちあるき2019に当選したので、ガイド付きで町歩きしました。
5km程は歩いたでしょうか。
帷子川(かたびら)の名前の由来は、昔、北側の河口部沿岸がなだらかで、片側だけが平地だったことから「片平かたひら」の名が起こり、それが「帷子」となったと言われています。
江戸時代の帷子川は、まだ保土ヶ谷のすぐ先までが海だったので、河口には舟着場があり、潮の干満を利用した舟運の拠点として、商人が薪や炭を江戸方面に送るなどにぎわいを見せていました。
明治に入ると絹織物輸出が急増し、川で船を使って港まで運ぶことができたので、帷子川周辺に染色工場が集まりました。
工場では、最後の工程で、布の余分な染料やのりを落とすため、川の流れを利用して水洗いする作業がありました。
そのため、流れ出した染料で川も七色に変わったと言い、これは戦後まで続いたそうで、川近くに住んでいた人から臭いもひどかったと聞きました。
このように地元の歴史を知ることは、自分一人だけで歩く方でも参考になるのではと思い、ご紹介します。
ぜひ歩いてみてください。
2.コースの紹介
保土ヶ谷は、昔から東海道の宿場町であったため、幕府や大名の運搬に使った人足や馬を手配する問屋場のある町だったのです。
人馬は、予約制でしたが、宿場だけで準備できないほど多くを人馬を、近郷の村から動員させるのが助郷で、その事務所が会所です。保土ヶ谷の助郷会所は、今では自動販売機が置かれているだけ。
保土ヶ谷宿内の道がいかにまっすぐであったかがわかる古地図
町の外を警備するチョンマゲのポール。
現在の帷子会館は、大正初期の消防車を収納していた建物
かっては暴れ川であった帷子川水系今井川の保土ヶ谷宿場入り口にあった中橋。幕末に町民がお金を出して川の付け替え改修をしたそうです。
大蓮寺の境内には徳川家康の側室である養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がある由緒正しいお寺なのです。
天徳院の本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像。
天徳院の門は薬医門形式の山門で右側に木戸をつけ、四六時中患者が出入りできるようにしていたものと言われています
黄色い菜の香は他の施設を利用出来ない方のための老人ホーム。昔は神明社がこの高台にあったと言います。
今は道路になっている旧今井川の名残りがこれらしいです。
今まで軽視していた耕地整理竣工記念碑は、実は大正の終わりから昭和の始めにかけて保土ヶ谷を整備された岡野欣之助氏の記念碑。
神明社は伊勢神宮の神領地として寄進された御厨(みくりや)であったという由来が記されています。
神明社内には境内地下70mから汲み上げた井戸水が湧いており、水質検査済のため飲用可で知っている人はペットボトルに汲んで帰るとか。
横の水神社のお社にはお水取りができると書かれています。
水神社の人形流し(人形は「ひとがた」と読みます)にも井戸水は使われています。
YBPの中には、いくつもの芸術作品がオープンされています。
今日は保土ヶ谷宿のジオラマを展示していただいていました。
まっすぐな宿場内の道も忠実に再現していただいています。
天王町商店街は、知らない間にテレミン(ネーミング権を獲得したYCVのマスコットの名前です)商店街になってました。
橘神社は以前は牛頭天王(ごずてんのう)社で天王町の名前の由来の神社。
広重にも描かれた帷子橋は15間(27m)もあったことが書かれています。
日本金属工業の跡地にはマンションの一部にもかかわらず「ステンレス鋼発祥の地」の記念碑があります。
昭和6年建築の米穀商であった楢崎邸には今でも実際に住んでおられます。
遍照寺は岡野新田を開拓した岡野家の墓所です。
神明社の参道がまっすぐに東向きなのは理由があります。
お社の屋根の上の鰹木(かつおぎ)の○に朝日に当たり、まぶしいばかりに光るように設計されているそうです。
現在の天王町商店街は、従業員6,000名を超える世界最大級の生産量を誇る製糸工場であった富士瓦斯紡績の表門前の通りです。
このイオン天王町店の店舗入口が富士瓦斯紡績の表門だった。
帷子川周辺の染色工場から流れ出した染料で川も七色に変わったと言います。現在の帷子川からは想像できません。
保土谷化学の跡地には水銀が多量に残っていたと聞きました。
この鉄塔から周辺の工場や家庭に余剰電力を供給していたらしく、今でも現役です。
3,マップ